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Posted by - 2026.06.11,Thu
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Posted by 光部 - 2011.08.18,Thu
前に書きかけで放ったらかしておいた言バゼ小話を再開しました。


 目覚めたバゼットは、部屋に言峰がいるのに気づいてあわててもういちど瞼を閉じた。
 予想していなかった事態に心臓が高鳴りはじめた。なぜ、という疑問は焦りになっていた。言峰に気づかれないようそっと時計を見やる。やはり、早朝のこの時間ならいつも言峰は教会へ行っていて留守のはずだった。
 驚きをまぎらわすように、バゼットは静かに溜息をついた。しかし心にこびりついた焦りはなかなかとれず、むしろけしかけるように心拍を速くしている。
 なにもおかしいことはないのだ、とバゼットは自分に言い聞かせた。いつもとちょっと違うだけの眺めなのだから、何もおかしいことはない。言峰がいるのは休みだからだろうし、今まで何度も経験してきた。
 背に言峰の気配を感じたバゼットはどうしても萎縮してしまう。言峰は台所で作業をしているらしく、擦るような音が聞こえてくる。目覚めてすぐに感じられる言峰の存在は、いつもなら安堵と幸せの気配でバゼットの心をあたためてくれる。だが今日に限っては、焦りと不安の気配しかもたらしてくれなかった。
 どうして今日に限って言峰がいるのだろうと、バゼットはみずからの不運を悔いた。言峰がいなければ、この胸の閊えも重みも知られないまま仕事に行けた。だがひとめ顔を見られたが最後、言峰はバゼットの心中などすぐに察し、漠然とした重みでしかないバゼットの不安を、論理と情感という輪郭を与え、具体的な形にまで昇華してみせるのだ。いつもはそれがありがたかったが、今日の不安だけは言峰に知られたくなかった。
 バゼットは寝息をたてるふりをしながら、その実ははやる心臓をなだめていた。しばらく待っているうちに、言峰がどこかへ出かけてはくれないだろうかと願った。しかし待っているうちに、こちらの時間がなくなってくる。鎮めようとした焦燥が、バゼットをあざ笑うかのようにますます強くなった。
「目覚めたのなら、起きたらどうだ」
 いきなり聞こえてきた声にバゼットは驚いて思わず身を震わせてしまい、すぐに後悔した。これでは何もかもが水の泡だった。
 それでも、バゼットはつい今しがた起きたという顔をとりつくろって言峰のほうへ身体を向けた。言峰は林檎を丸ごと手にし、ナイフで皮をむいていた。視線こそ手もとの林檎に注がれているものの、注意はこちらに向いているのをバゼットは敏感に感じ取った。林檎の皮は細く長く下へとつづき、途切れることなど許さない言峰の厳しい執心が、いまのバゼットにとってはことのほか気まずく、自分を責めているように感じられた。
「二度寝している暇もないだろう。仕事は休みなのか」
「いいえ」
 まさか言峰がいて焦ったと言うわけにもいかず、バゼットは身体を起こした。
「綺礼は」
「休みだ」
「言ってましたか?」
「訊かれなかったから言わなかったまでだ」
 言峰のぶっきらぼうな声色も、皮むきに集中しているせいだと思う。言峰との距離がいまのバゼットには救いに思えたものの、朝の明るい日差しが自分の焦りを照らし出してしまうのではないかと怖れた。
 バゼットはのろのろと起き上がった。驚きと緊張のせいで、もう何時間も前から目覚めていたように身体が機敏に動く。だがその通りにしては怪しまれると思ったバゼットはわざと緩慢に支度をはじめた。言峰に気づかれないようにと配慮すればするほど心の防備がなくなっていき、見透かされるのではないかと怖くなる。バゼットは言峰の気配から逃れるようにバスルームへと入った。 
 バゼットが出てきたとき、言峰はふたつめの林檎へナイフを入れはじめたところだった。
「食べるか」
 訊いてきた言峰に、バゼットは首を横に振った。
「もう出なくては」
「そうか」
 動いているものに気をとられるせいか、それとも顔を見るのが気まずいせいか、バゼットはつい言峰の手を注視してしまう。手早い言峰の仕草は細かく途切れることなくつづいている。ナイフが動くたびに刃に光が走り、その冷たい一筋に自分の心が刺されて痛むようだった。やはり、隠しごとは駄目なのかもしれない。誤解を生むことを怖れるより、潔白であろうとする姿勢を大事にしなければならないのかもしれない。説明すればきっと言峰も解ってくれる。自分たちは、どんな罅にも揺るがない信頼の礎を築きあげてきたはずなのだから。 
「綺礼」
 思い切ってバゼットは言峰を見た。
 見返してくる言峰の瞳は朝に似つかわしくないほどに暗く、黒々とした艶が異様な迫力を放っている。バゼットは負い目を看破された気がして次の言葉が言い出せなくなった。先刻の勇気がとたんに萎む。咄嗟に、なにも伝えなければいいのだとバゼットは判断した。変に波風を立てるより、最初から何もなかったことにすれば、変な諍いも疑いも生まずに済む。自分自身さえおとなしくしていれば、ふたりの間にはなんの凪も起こらず、安穏に身を浸していられる。
「……いえ、なんでもありません」
 自分でも不自然に思う沈黙を経て、ようやくバゼットは言った。そして慌ただしく支度をすませて髪に手をやりながら玄関へと向かう。その間も、林檎の皮を剥く音はずっと耳についていた。
「バゼット」
 振り返ったバゼットへ、言峰が林檎を投げてよこした。
「食っておけ。駅につくまでには片付く」
 もうひとつの林檎を掲げて言峰が言う。バゼットは小さな声で礼を言って家を出た。
 家からの坂道を下る道すがら、バゼットは安堵に胸をなで下ろしていたが、なぜか焦りもひどくなっていた。うまく躱せたと思う一方で、言峰に何もかも知られてしまったという恐怖も否めない。行く先からあたたかな風が吹きつけてくるが、肌に沁み、心にたどりつくと不穏に冷える。仕事に行くときは爽快に思える葉叢のさざめきも、今は心をいたずらにざわめかせるだけだった。
 林檎を齧ると、舌を刺すような甘酸っぱい味がした。剥かれた林檎はほとんど凹凸がなく、均一で白い身は機械に皮を剥かれたかのようだ。言峰の手つきが思い出されてバゼットはまた気まずくなった。言峰がこの林檎を与えたのは、何かしらの示唆、たとえばどこまでも目が行き届いているという暗喩なのかもしれない。あるいは、アダムとイブの逸話になぞらえて、迷わないための智慧をつけろとでも言いたいのだろうか。こんな小さな果物にも、言峰の手の余韻と執着が宿っている。
 坂を下るにつれて、ぼんやりとした色のつぎはぎのようだった街が、明確な形になっていく。
見慣れた街がいつもの燦々とした日ざしを浴びて輝いている。その晴れやかさを見ていると、心のなかにあった後ろめたさや焦りにも日ざしに薄まっていくようだ。そもそも、そんなにたいした問題ではなく、自分ひとりが勝手に悶々としているだけなのかもしれない。何にせよ、仕事なのだ。雑念にとらわれているようでは、捕まえられるものも捕まえられなくなる。
 バゼットは息を深く吸って不安を払拭しようとしたが、日ざしに薄められたはずの後ろ暗さは、かえって心の奥底に逃げ隠れて、奥底に溜まっていくような気がした。
 もう一口林檎を齧る。手であたためられた林檎はぬるい味がした。この林檎を言峰も食べているのかと考えたバゼットは、いまさらのように、言峰がふたり揃ってこの林檎を食べるつもりだったのだと気づいた。

  坂を下って行くバゼットの姿を眺めながら、言峰は林檎を齧った。見慣れた背が緑にまぎれながらだんだんと小さくなっていく。言峰は幾度となくバゼットをこうして見送ってきたが、いつもと変わりのないバゼットの足取りはどこか急いている。風に吹かれた葉叢のさざめきもどこか不安げに見える。まばゆい陽光が、どこか空虚なまでに白々しく草原を照らしていた。
 バゼットのおかしさに、言峰ははじめから気づいていた。あきらかに目が覚めているのになかなか起きてこようとはせず、起きてからも態度が妙によそよそしかった。あれは隠しごとをしているときのバゼットの癖だった。無意識なうちなら、行動の端々に後ろ暗さがあらわれるだけでまだ可愛げがあるが、あのような振舞いでは、隠しごとをしているのだとみずから白状しているようなものだ。 こちらの目を見ず、必要以上にびくつき、己の保身だけで精一杯になっている。バゼットが言峰から疑惑を取り払おうとつとめればつとめるほどに、言峰の心には深い疑惑が根ざしていた。
バゼットの後ろ暗さはいつもと違っていた。いつもは、見え透いた嘘をついていても隠しごとをしていても、ばれても構わないという甘えが態度に見え隠れするものだ。事実、隠し事は言峰にとっては他愛のないものだった。しかし今日は、絶対に悟られてはならないという、まるで犯罪を隠すかのような必死ぶりが態度にありありと出ていた。言峰がこの時間に家にいたのがまずいという顔をして、休みだと聞いていなかったと落胆まじりに言ったバゼットの顔は、気をとられすぎて表情に後ろ暗さが深い影が落ち、憔悴じみていたほどだ。言峰は拒絶の色をしたその影が気に入らなかった。
 だからバゼットから名を呼ばれたとき、言峰は黙してバゼットの出方を待った。いつもなら、こちらから譲歩してやってバゼットの情を代弁してやるのが常道だったが、先刻はそんなつもりになれなかった。案の定、バゼットは罰が悪そうに口をつぐみ、うやむやに終わらせた。おそらくは咄嗟に、都合のいい理屈を思いついてそこへ逃げ込んだのだろう。情と理屈をとりちがえるのは悪い癖だ。情こそが相手へ訴えることができ、最も相手の心に響くのに、バゼットは理屈で言峰を丸めこもうとする。それでは愚かで実を結ばない計略にしかならない。
 バゼットのその齟齬を思うと、いらつきにも似た嗜虐心がわきおこってくる。しかし、いつものような愉悦は感じず、気分の悪さばかりがある。そこまで考えて言峰は驚いた。バゼットの心を見通せず、後ろ暗さを感じただけで、どうにも気が晴れなかった。
 バゼットが家を出て行ったとき、その背には焦りとそして言峰から逃れられたという安堵が感じられた。すぐに葉叢のなかへ紛れてしまった後ろ暗い安堵の余韻が、いまだ脳裏にさざめき、不穏な感触となってますます言峰の心を乱す。バゼットはあんな振舞いで言峰をやり過ごせたと本当に思っているのだろうか。あの暗さが言峰の心をも染めてしまうと判らず、あのように適当なやりとりで優位を保てていると本気で信じているのだろうか。
 言峰は置きかけた林檎をもういちど取りあげた。この釈然としない心の感触を、言峰は自分でも意外に思っていた。正面切ってこちらを見なかったバゼットの愚かさと、あんな手で隠しおおせると思った僭越ぶりが腹立たしい。だが、どちらもこの苛々の理由には足りていないようにも思う。あるいはバゼットが懸命に隠していたのが、理屈ではなく情であるのが許せないのかもしれなかった。
 ふたたび林檎を置く。バゼットはどんな気分でこの林檎を見ているかと思う。おそらくは安堵しながらも、こちらの意図を読み取ろうと必死になっているにちがいない。もともとバゼットのために用意してあった果実を渡しただけで、林檎にさしたる意味はなかった。存分に迷い、後ろめたさに苦しめばいい。思い悩んでいるバゼットの姿を想像して、言峰はひとり意地の悪い笑みを浮かべ、ひそかに愉しんだ。
 目を外へやると、バゼットの姿は完全に見えなくなっている。差しこんでくる朝日は言峰の心をあらわしたように鋭く、痛いほどにまばゆかった。影には静寂が潜み、バゼットのいなくなった部屋は時間が止まっているように見えた。そこで言峰の思いは原点に戻った。バゼットは、自分に何を隠そうとしているのか。
 言峰は立ちあがって外套を手にし、玄関へと向かった。

 駅についたとき、バゼットはちょうど林檎を片づけていた。
 言峰の言うとおりだったと、落ち着きのない心のまま考えた。言峰の言いようが当たっていたことで、自分の行動もすべて予見され、把握されているようでますます気が逸った。しかし、言峰はもういないのだから、自分のなかの残像さえ振り払えばいいのだ。バゼットは無理やり自分を納得させながら、林檎の芯を捨てた。急いできたから、林檎を齧りながら歩いていてもさほど変な目はされなかった。通勤の途中で果物を口にするのも、急いで歩くのも、日常の範囲なのだと思う。しかし、バゼットが抱えている後ろめたさ だけが日常から乖離していた。
 ちょうど通勤時間にさしかかった駅は人でごったがえてしていた。人々の喧騒を縫って、発車を知らせるアナウンスが響いている。人々はそれぞれの道を歩き、それぞれの朝の流れを描く。いつもの風景、バゼットが当たり前のように通り過ぎてきた眺めだ。ホームへ行って列車に乗り、国境を超えてロンドンへ行く。しかし、今日はいつもの流れに乗らず、バゼットは駅舎を見あげていた。凝った彫刻が一面に施された駅舎は、朝日を浴びて鋭い形を際立たせ、いつもより重々しく視界にのしかかってきた。
 別に、言峰を裏切るわけではない。後ろめたいことは何もない。バゼットは内心でくりかえしてきた言葉をふたたびよみがえらせた。この言葉が心臓にまとわりついて心拍を速めるようだったが、引きはがしては誠実でない気もする。こうして言峰の思惑の残滓を留めておくことで、今日の免罪符にしようとしているのかもしれない。いちど拭ってしまったら、ふとした拍子に思い出したときに、自分がどうなるかわからないせいもある。心を鎖で縛られ、痛みにさいなまれている今の状態をバゼットは深く望んでいたはずだったが、今日ばかりは苦しいばかりだった。
 冷ややかな風が吹きつけてきて我に返る。バゼットは駅舎に背を向け、もと来た道を戻りはじめた。目をまっすぐに差してくる陽光がまぶしかった。
 駅に向かう人々の流れに逆らって、バゼットは広場へと向かった。足を進めるうち、いままでとは違う緊張が胸中に広がっていくのを感じた。これは仕事に対する緊張感だから、いままでの後ろ暗い心よりは居心地がいいはずだ。しかしそう思ってみても不安が堆積してくるだけで、泥のようなその不安は重々しく、未来の見通せない色を心に重ねていく。
 家へ帰るときは異なった道を通り、バゼットは広場にたどりついた。広場には、いそがしく通り過ぎる人もいれば、ゆっくりとした足取りで歩く観光客とおぼしき人もいた。朝の清澄な日差しが街路樹の隙間から人々の背を照らし、いつもと変わらない日常の風景を浮かびあがらせていた。
 時計を見やると、教えられた時間までまだだいぶ猶予があった。バゼットはベンチに腰かけて時を待った。

 ずっと迷うような歩き方をしていたバゼットが、いちどベンチに腰を下ろしたとたん、わずかにも動かなくなった。
 言峰は建物の影から広場を覗きこみ、その姿をうかがった。横顔がわずかに見えるていどで細かな表情はわからなかったが、バゼットの全身に満ちた緊張と不安は離れた場所からでもありありと感じられた。
 一見したところ、何かを待っている様子だった。時か、人か、それともほかの何かなのか言峰にはわからない。なにせバゼットは言峰にいつもの通り仕事だと言って出かけたのだ。しかし職場には向かわず、駅についたとたん身をひるがえした。言峰が渡した林檎を食べ終えたとき、その責をも終えたという風だった。
 バゼットの言葉を信じるならば、ああやって座ったきりなのも仕事なのだろう。しかし諸々の事象を考慮したとき、その仕事の内容がバゼットにとっても、そして言峰にとってもあまり嬉しくない内容なのだと思う。バゼットは顔をうつむき加減にして背を伸ばしたまま座り、そのしゃんとした姿勢が不安にとらわれたきりの内面を感じさせ、かえって周りから浮いて見えていた。
 バゼットは長い間座ったきりだった。必然的に言峰もそれにつきあう形になってしまい、建物の壁に身をもたせかけた恰好でバゼットを眺めていた。じっと見ていても、バゼットが気づく様子はない。時間がたつにつれて広場に差す日差しが移動していく。停滞したぬるい風がバゼットの髪を乱す。白い肌に光が滲む。いつもは近くで眺めている睫毛の繊細なさざめきが今は遠くにあった。横顔に街路樹の影が落ちかかり、硬い表情のうえて揺れ動くさまは、心の浮き沈みを描いているようだった。
 言峰がしびれを切らして帰ろうとしたとき、突然バゼットがベンチから立ち上がった。溜息をつき、気合いを入れるような仕草をして広場から出ていく。言峰は一瞬躊躇したが、結局バゼットのあとをつけた。

 目的地に近づくにつれ、心臓が早鐘のように打ちはじめた。
 時間は合っているはずだから、間違いもないはずだ。バゼットは早足にならないように気を配りながら歩いていたが、どうしても急いた足運びになる。
 時間はすでに昼にさしかかっていた。ちょうどランチの時間にさしかかり、通りに並ぶカフェやレストランには人々が集まっている。楽しげな会話や笑い声を遠くの世界の出来事のように感じながら、バゼットは一件のカフェに目をとめた。聞いた話が正しいなら、テラスに席を取っているはずだ。
 いそがしく視線をやった先に見つけた。青年がひとり、何をするでもなく時間をもてあましている様子で席に座っている。写真で見た時とはいささかちがうようだが、本人にまちがいなかった。
 バゼットはいちど立ち止まって自分の姿を見下ろし、かすかに後悔した。いつものシャツ姿は、色気の欠片もなく、仕事をしているようにしか見えない。まさか起き抜けに言峰がいるとは思わなかったから、服装に気を配る余裕も、ましてやそれを実行にうつす度胸もなかった。化粧気もなく、髪も風に吹かれて乱れたままだ。これでうまくいくとは到底思えない。だが、二度とない機会を逃すわけにはいかない。今ここで臆して取り逃がしでもしたら、すぐ地下に潜られ、また一から居場所を探し出さなければならなくなる。
 だというのに、頭のなかに言峰から言われた数々の揶揄が浮かんでくる。昔からずっと、子供のようだと言われ、浅はかだと咎められ、未熟だと評されつづけた。言峰の表情が脳裏にありありと浮かぶ。面と向かって言われたときは言葉の裏に隠された情を感じられたのに、いま思い返してみるとその顔つきには悪意と侮蔑の落とした暗い影に覆われて奥が見えない。あるいは、言峰の情を遮断しているその影は、バゼット自身の後ろめたさなのかもしれない。しかし言峰の言いようは本当だ。自分には、お世辞にも異性の気を惹けるような輝きはない。言葉や態度のひとつひとつが枷となり、バゼットの足どりを阻んでいた。
 バゼットは首を振って言峰の残滓を払った。言峰の評価を気にしている場合ではないのだ。やってみなければわからない。これは仕事なのだし、自分の輝きがどうこうという問題ではない。そのあとに一瞬よぎった期待のような考えに、バゼット自身が驚いた。もしかしたら、標的である青年は、言峰とはまるで違う価値観を持っているはずだから、言峰とは異なる魅力を見出してくれるかもしれない。
 バゼットは意を決して、髪を手で直すとシャツのボタンをひとつ外して襟を広げ、青年の傍まで行った。幸いなことに、テラスは満席だった。
 気配に気づき、怪訝そうに見あげてきた青年に向かって、バゼットは笑みを浮かべた。逆光に入っていたから、戸惑いは隠せたと思う。
「ここ、よろしいですか」
 バゼットが言うと、青年は一瞬ひるんだ様子だったが、周囲を見渡して納得したように手で席を示した。
「どうぞ」
 バゼットは椅子に腰掛け、彷徨っていた鳥が陸地を見つけたような安堵を取り繕った。腰を下ろす瞬間、わざとらしく身体を前に屈めるのも忘れなかった。
「助かりました。席が空いてなくて」
 笑顔を絶やさないように気をつけながら、バゼットは言葉を継ぎ、給仕を呼ぶ間を利用してそっと青年の顔色をうかがった。見た感じ、自分とおなじ世代の印象を受ける。態度こそ落ち着いてはいるものの、若さが昼間の強い日差しに際立って見えた。顔色は陽光の痕跡を露ほどにも感じさせないほどに白く、バゼットは自分と同じ種の人間なのだと確信を持った。人との関わりを絶ち、太陽の光を浴びずに地下の狭い工房に籠っている、バゼットがかねてから狩ってきた者特有の閉塞感が青年の表情にはあった。
 しかし青年は見事なブロンドの髪をしていた。金紗のような輝きは表情をやわらげ、どことなく高貴な印象を醸し出し、暗くふさぎがちな印象が髪のおかげで品がよく見える。バゼットはうらやましくなった。自分が赤毛でなく、青年のような金色の髪を持っていたら、少しは色気が増して見えただろうか。もしかしたら、言峰だってもうすこしまともな扱いをしてくれたかもしれない。しかし歪んだ美意識を持つ言峰のことだから、ことはそう単純にはいかないだろう。
 バゼットは深みにはまりかけた考えをあわてて現実へと引き戻した。何もかも言峰に結びつけるのは悪い癖だ。いつもは言峰を通して実を結んでいる考えを、今は途中で千切らなければならなかった。
「こちらへはよく来るんですか?」
 さりげなさを装ってバゼットは青年へ訊いた。
「ええ。通り道なもので」
 青年が答える。まだ怪訝さは残っているものの、話しかけられても青年が別段気分を害した様子はなく、バゼットは安心した。青年の言葉が嘘か真実かはバゼットにとって重要ではなかったが、本当なのだろうと推測した。そうだとしたら、ずいぶんと近くに潜伏していたことになる。
「あなたは?」
 青年が訊ね返してくる。もともとの性格なのかもしれないが、青年が無視も邪険にもせずに話をつづけてくれたのがバゼットは嬉しかった。いつもは傷つけられるためにあるだけの自尊心が、充たされるという本来の役割を取り戻していくようだった。バゼットは控えめな喜びを青年に向けた。青年はバゼットの顔を見ておらず、周囲に気を配っている。片手をテーブルの上に置いて、寛いだ態度を装っているものの、隠しきれない緊張がこわばった指先にあらわれていた。
「ここは初めてです」
 観察しているのを悟られないように、そして青年が相手をしてくれた嬉しさを伝えるために、バゼットは明るく答えた。
「仕事で?」
「観光です」
 バゼットは用意していた返事を口にした。遠くからの異邦人を気取ったほうが怪しまれないと踏んでいたし、こういう手法を使うときは、行きずりを装ったほうが成功率が高いとも計算していた。
「どちらから?」
「アイルランド」
「そうですか。私も一度行ったことがあります。自然が素晴らしかった」
 変に媚びることもなく、かといって突き放すでもない青年の態度が、バゼットに勇気を与えた。 この調子ならうまくいくかもしれない。 胸の内にあった不安が期待になり、自信へと変化しはじめていた。
 運ばれて来た飲み物が目の前に置かれるとき、微妙な沈黙が生まれた。第三者に会話を聞かれたくないような反応は、長く人目から逃れてきた環境ゆえなのだとバゼットは思った。沈黙を縫うように青年がバゼットを凝視してくる。わざと目を合わせないでいると、青年の目が一瞬だけ胸もとを垣間見る。盗み見るような、どこか後ろめたさを含んだ視線だ。バゼットは素知らぬ振りをしながらも、目論見が成功したのだと確信していた。あからさまに誘ってはおらず、しかし思わせぶりな態度との差異が、青年を迷わせているのだと思えた。
 グラスに触れるとき、バゼットは指先にまで注意を払った。普段の振舞いが、どこから顔を覗かせるかわからない。子供っぽいと言峰に揶揄された言葉が、いまのバゼットにはほどよい忠告になっている。
「今日はお休み?」
 少しくだけた声でバゼットは訊いてみた。
「そう見えますか? 残念ながら仕事ですよ」
 バゼットの言いようにあわせてくれたのか、青年も親密めいた声色になった。
「ごめんなさい、そうは見えませんでした」
「人を待っていまして。約束の時間を逃さないように」
「もしかして、恋人ですか?」
 悪戯っぽく切り出したバゼットに、青年は 恥ずかしがるような、それでいて素直な笑顔を向けた。バゼットは胸に差した緊張を悟られないように笑顔で押し殺したが、自分でも驚くほどうまくいった。
「仕事だと言ったでしょう。それに相手は男です。残念ながらね」
 残念という言葉に含まれた微妙な情と期待が含まれ、バゼットは成功への流れをたぐりよせたと実感していた。青年は、あきらかにバゼットをひとりの女として意識しはじめている。
「私は邪魔ですか?」 
 青年の言葉に勇気を得て、バゼットは言った。
「とんでもない。ひとりでいるより楽しいですよ」
 バゼットは知らず高揚していた。仕事を抜きにしても、自分が人を楽しませているのだと感じられるのは嬉しかった。

 言峰は街角で誰かを待っているとでもいう風に立ちつくし、ときおり視線をやってはバゼットを観察していた。すぐに動きそうな気配も感じられなかったし、じっと見るのはバゼットに悟られたい時だけでいい。
 言峰のいる場所からは、カフェのテラス席に腰かけたバゼットの姿は遠く、通りを行く人々の足取りに途切れて見える。男と微妙な距離を保ちながら喋り、たまに笑顔も見せる。知らない人間を前にしたときのような緊張はあまりなく、すこしはすっぱな態度から、下心のようなものが透けて見えていた。
 言峰の考えどおり、バゼットは男に近づいた。あれが執行すべき標的か、それに近い人物なのだろう。接点がまるでない男に近づくためにバゼットが思いついたのは、己を餌にする方法だった。しかも頭ではなく、色目を使おうというのだ。最初は言峰も半信半疑だったが、男を見つけたときにバゼットが胸もとを目立たせるように広げたのを見て、驚きとともに感心した。そんな思いつきを実行にうつそうとするほど、バゼットには自信も自負も備わっていないと言峰は考えていた。常に周囲と己を比べ、まわりよりも劣っているのだと恥じがちなバゼットは、女よりも人間性で自信をつけようとした努力はあれど、女性としての魅力など自覚していなかったはずだ。
 この試みの無謀さは、バゼット自身もよくわかっていたにちがいない。朝からの不審な態度も納得できる。任務だと胸を張れないまま、言峰の目を気にして、後ろめたい心に振り回されていた。出がけに言いかけてやめたのも、たくらみをいちどは話そうとしたからだ。だがそこで、いつもの小心が顔を覗かせ、引き下がった。事を荒立てるのを恐れて後回しにするのはバゼットの悪い癖だった。
 バゼットの目的が明らかになったのだから、朝からずっと抱えていた靄も晴れるはずなのに、かえって濃く重く心を覆う。あるいは自分で自分の本心を隠しているのかもしれないと言峰は感じていた。だが目を背けようとも本心は、人だかりの向こうで男へ笑顔を見せているバゼットの姿となって、まざまざと見せつけられるようだった。
 バゼットの自信と自尊を見つけ出すのも、育てるのもそして潰してやるのも自分だけだったはずだ。この手で芽吹かせたバゼットの女の艶めきは、年を追うごとに輝きを増し、暗い欲望の翳りまでも顕した、複雑な美しさを開花させた。
 花が己の姿を見ることができないように、バゼット本人は己の美しさに気づいていない。あるいは美を、隠すべき心の澱みだと勘違いしているのかもしれない。献身的に、そして生贄となるのを願って差し出されるバゼットの澱の美しさは、自分だけが識り、所有していればいい。きらびやかな陽光の下でも決して照らされることのない言峰の心の翳りは、いつでもバゼットの艶やかな澱みに浸り、欲の渇きを潤し、ひそやかな愉悦で充たされる。
 楽しいのか、男と会話を交わすごとにバゼットの笑顔が濃くなっていく。最初はただの義務でしかなかった表情が、時間を追うにつれて感情を得た、実のあるものに変わっていく。相手の男も最初は受け身な姿勢であったのが、今は姿勢を正し、バゼットのほうへ身体を向け、興味を含んだ視線がバゼットの身体をなぞっている。言峰はいちど視線をそらして感情を冷ましてから、もういちど席へ目をやった。バゼットの穢れのない肌と艶やかな姿は、燦々とした日差しにも遜色のないほどのまばゆさを放っている。その光景が、言峰にはひどく遠く感じられた。
 頭ではわかっていても、釈然としない。情の問題であるのに理屈に訴えているのは、自分も同じだと言峰は自嘲した。バゼットが己の価値に気づきはじめ、表情や振舞いに実らせるのを恐れているのだ。いまバゼットが表しているのは、言峰に捧げるような暗く底光る美ではなく、なんの不純物もない真っ当な輝かしさだ。言峰が望んでも手に入れられず、ゆえに畏れた遠い美だ。おそらくバゼットは自分の任務に必死になるあまり、言峰のことなどいまは頭にないか、それとも取り払おうと躍起になっているはずだ。バゼットの存在から言峰という翳りを取り除けば、あれほどの純粋な笑顔を宿せる。それは憧憬のように言峰を強く惹きつけながらも、灼かれるような感触を心に刻んでいた。くすぶりは傷となり、やがて歪んだ欲望となってふたたび火を灯す。
 バゼットの価値は、彼女自身が気づいてはならないものだ。その歪な美は、この手のなかでだけ咲き誇り、この目を楽しませるだけに存在する。自分ではない手によって、ちがう色を見せるのは許されない。ならば手折るのも、言峰自身の手によらなければならなかった。あるいは、いままで散々バゼットを揶揄し未熟だと言い聞かせてやったのも、嗜虐心である前に、バゼット自身が己の色香に気づかないよう仕向けていたのかもしれなかった。
 そっとうかがい見たとき、バゼットが笑った。声など聞こえないはずなのに、弾けるような笑いが頭のなかに谺するようだった。



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